ラジオ製作

 

中学校になって化学の危ない実験に危険を感じ始めたことで
つぎに始めたことはラジオの製作である。この頃は真空管全盛時代であるので
真空管を使ったものを作り始めた。3個の真空管を使った再生検波方式の
ラジオとか少し後の5球スーパのラジオとかをハンダごてを握って
製作した。結構誠文堂新光社の初歩のラジオとか
無線と実験とか読むと高度の知識が得られて勉強になった。
(買ったハンダの性能が悪く、苦労した)

製作費用は風呂水をポンプで入れた(注)駄賃(10円)とか
雑誌を毎月買ってもらっていたのをあきらめて貯めた金とか
を使ってひとつづつ部品を買っていった。

注かなり時間のかかる作業でポンプを全身で動かさないと井戸水が
風呂桶にいかない。バケツいっぱいの水も7、8回
ポンプを押して汲まないといっぱいにならない。

その当時日本の電気部品はアルプス電気のバリコン、パイオニア
のスピーカ、春日無線(トリオと呼んでいた)のコイル、ミツミのボリューム
とか高級ではないが結構使えるものが売り出されていた。
値段も安かったと思うがあまり記憶にない。(しゃれたお菓子より
はるかに電気部品のほうが安かったようである)
憶えているのは高校になった頃50MHzの超再生受信機を
作ろうとして買った真空管が3ヶ月の小遣いで足りないくらい
高かったことは憶えている。50MHzの電波が存在したかどうか
全く自作機で受信できなかったので定かでない。

ラジオの製作ができるようになると修理もできるようになるもので
近所から頼まれてラジオの修理をして歩いたのを思い出す。
電気店に出すと高いので中学生の私を使って
修理してもらうことがひとづてに広く伝わり、知らない人の家のまで
修理をするようになった。見返りは果物とかお菓子とか
をもらう程度で金銭を稼いだ覚えはない。でも
子供心にラジオ修理に技術で一生食えるものかな
とか考えたこともあった。

この頃の家庭のラジオも再生検波方式の3球ラジオから
5球スーパへ変わり、高校2年生の頃には金持ちの家では
テレビがあるようになった。ねずみのしょうべんで汚れた
汚いラジオを修理していたが、一方では高級なラジオを
持っている家庭もあった。そんな家庭の捨てたラジオの
部品は私のところへ来てラジオ製作に再利用された。

また中学校2年生以後は我が家はラジオを買ったことはない。
家のラジオを自分が作ると言ってラジオを買うお金も私のラジオ製作に
回したと思う。この頃は作るほうがはるかに安い時代でもあった。
私の作った5球スーパが長く我が家のメインのラジオであった。


一方でアマチュア無線をしたくてたまらず、BCL用の
かなり凝ったラジオを設計し、製作した。中間周波数の
増幅を2段として中間周波数トランスを3個用いるもので
発振する限界まで増幅をするものである。(実は発振が止まらず、
それがポジティブフィードバックによるものであると知ったのは
ある無線のプロに手紙を出したからである。)
ダブルスーパにもしたかったが調整器具がなく、あきらめた。
(調整するためには正確な周波数の信号が発生できるものが必要)

アマチュア無線の試験を受けたかったがこの頃は
山口から広島に行って受けるのは我が家では無理なので
これもあきらめた。高校時代は受験勉強よりも
無線に興味があって発信機を作って町内の友達と
無線ごっこをしていた。しかし、その友達はプロの無線士を
目指して中学校から無線士の学校に進学した。
(この手の学校は多かったが、粗悪で彼は脱落したみたいである)

こういう時期にあきらめたことは後の人生に
尾を引くみたいでアマチュア無線は30代に仕事そっちのけで
没頭してひんしゅくを買ったようである。

 

次回に続く

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